櫻井塾長のつぶやき
令和8年冬号 五十鈴の川浪~「花筏」と「紅葉の筏」~
宇治橋の上手と下手。内宮へのお参りの往還でこの大橋を渡るとき、普段の五十鈴川ならば、上流は水をたたえ緩やかで、下流はせせらぎの音とともに勢いを早め、やがて深みと浅瀬を経て烏帽子岩の淀みに至る様子がうかがえます。この眺めは、神宮を訪れる者にとり心休まる神域の光景ではないでしょうか。
内外両宮の四季に想いを馳せようとしたところ、日本の気候は、昨年の新語・流行語大賞トップ10に選ばれたように、夏と冬「二季」が中心と見なされているようです。かつて生態学者の吉良竜夫氏(1919~2011)が、日本は長い夏と長い冬とが交代する「蚊帳」と「炬燵」の国と比喩されたことを思い出しますが、うっかりしていると、いつの間にか一年を意味する「春秋」の語が消え去りそうです。
額田王の作品に、「春山の花の艶」と「秋山の千葉の彩」のいずれが素晴らしいかを判じた長歌がありますが、古代人が夏の酷暑と冬の厳寒とを比較をしたならばどのような歌になったのでしょうか。
さて額田王は、
冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど
山を茂み 入りても取らず 草深み取りても見ず
秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く
そこし恨めし秋山われは(『萬葉集』巻1・16番)
と、春秋の麗しさと残念さを対比した最後に「私は秋なんです!」と主張しました。春になれば啼く鳥の声に耳を傾け花を愛でる。しかし山は草深く入りがたい。秋になれば青葉を前に嘆くが、色付いた枝を手に取り感嘆する。時節の穏やかな巡りを待つ気持ちは古も今も変わらないように思います。伊勢の春秋も負けません。
ご正宮での参拝を終えて宇治橋を歩む時、川下の左手の淀みに、風に吹かれ浮かぶ春の「花筏」は見物です。そしてこの秋は、藤原定家の一首、
みてぐらの たつやいすゞの かはなみに 山の紅葉も ぬさやたむくる
(『拾遺愚草』員外一雑歌・例幣・509番)
を思い出しつつ、五十鈴の川浪に揺れる神への手向け(お供え)の紅葉を楽しみたいところです。その「みてぐら」は、川面に揺れる「紅葉の筏」なのか、それとも龍田川のように「紅深き波」の立つ川底に泊まっているのでしょうか。
*「もみぢ葉の流れて泊るみなとには紅深き浪や立つらむ」(『古今和歌集』秋歌下・素性法師)

