神崎塾長のつぶやき
令和6年冬号「亥の子」
「亥の子餅」、あるいは「亥の日餅」。この言葉を耳にしなくなって久しくなります。
というか、亥の子の祝いをしなくなって久しいといえるでしょう。たとえば、広島市の北部農村地帯には、子どもたちによる「亥の子搗き」が無形の民俗文化財として伝わってはいますが、亥の子餅までつくって伝えているかどうか。
ちなみに、亥の子搗きとは、家々をまわり、庭先で地搗きをすることですが、そのときに子どもたちは、歌をうたいます。その歌詞は、ところによってさまざまですが、最後にこう囃すことは、どこもほぼ同じでした。
「亥の子餅搗かんものは鬼を生め、蛇を生め、角の生えた子を生め」
これは、ただのおふざけではありません。いわば、神託(託宣)に等しいのです。つまり、子どもたちはカミの化身であって、一家の安全をはかる地搗きを行なったのです。それに対しての供えものをなせ、なさなければ災いが生じるぞ、といっているのです。
亥の子は、旧暦一0月の亥の日に行なわれる農村行事でした。
農村では、これを節供のひとつと数えて「亥の子節供」ともいいました。ちなみに、節供は、中国から導入された五節供(人日・上巳・端午・七夕・重陽)が宮中から江戸幕府を通して広く庶民社会にも共有されることになりましたが、節供はそれだけにかぎりません。節季という観念は、日本では古くから農事暦のなかで共有されていました。農作にとっての折目節目にほかならず、たとえば小正月(一月一五日)、節分(二月三日)、八朔(八月一日)などに節季祝いをしていました。それが、五節供の普及とともに節供祝いという呼称にも変じたのです。
亥の子も、春亥の子と秋亥の子がありました。端的いうならば、春亥の子に田のカミを呼び、秋亥の子に田のカミを送ります。一般に、田のカミは山から降る、とされました。山のカミの転身でもあり、したがって田植え前に呼び、稲刈り後に送ったのです。
もっとも、それを亥の子の祝いとせず、春まつりと秋まつりにしたところが少なくありません。一村一鎮守(氏神)の制が施かれた幕藩体制下(江戸時代)でそうなったところが多いので、古い変化といえます。以来、むしろ亥の子の祝いを伝えているところの方が少なくもなっているのです。
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伊勢 美し国から
番組概要
「伊勢美し国から」は、日本人古来の生活文化を「美し国」伊勢より発信する15分番組です。
二十四節気に基づいた神宮の祭事や三重に伝わる歴史、文化、人物、観光、民間行事などを紹介。古の時代から今に伝わる衣食住の知恵と最新のお伊勢参り情報を伝えます。
五十鈴塾は、日本文化の再発見を目指して各種講座及び体験講座などを開催してきた実績を活かして、この「伊勢美し国」番組企画を行っています。