神崎塾長のつぶやき
令和8年春号「春は霞…」
「春は霞」と、古くから詩歌にうたいます。いや、「春は曙」、と異論もでるでしょうか。
「やうやう白くなりゆく山際少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」
清少納言『枕草子』の「春は曙」に続く書き出しです。が、「雲の細くたなびきたる」を「霞の低くたなびきたる」とおきかえてみたらどうでしょうか。春の朝の風情としては、さほど違いがないともいえるでしょう。
霞は、微細な水分が空中に浮遊するために遠くの景色がぼんやりとかすむ現象をいいます。霧も同様の現象ですが、いつのころからか、春の霞に対して秋のそれを霧というようになりました。
印象としては、春の霞は淡く、秋の霧は深い。靄も同じようなものですが、とくに低くたちこめた霞や霧をさしていいます。
霞は、とくに川面にわきます。あるいは、漂います。そのためでしょう。各地の川に「霞橋」と俗称する橋がかかっています。ちなみに、霧橋とか靄橋という名称は、ほとんどみられません。
霞は、さまざまに「見立て」られます。たとえば、「霞組」とは、桟を互い違いに組んだ格子や障子の組子のこと。「霞の衣」とは、鼠色の喪服のことをいいます。
芸能でも、霞が見立てられています。たとえば、「霞幕」とは、歌舞伎の大道具で、浄瑠璃台の太夫連を隠すのに用いますし、「霧の扇」とは能舞で、広げた扇を上から前方におろす動作をいいます。
「霞網」は、かつて野鳥を獲るのに使われました。鳥の通過する尾根などにたて渡す網のことです。いまでは、野鳥保護のために霞網を使えません。そのかわり、このごろは、鳥害を防ぐためにトマトやウリの畑などにそれを張ります。ただ、その網は、単にネットと呼ばれており、霞網という呼称は伝えられていません。
春の霞は、さようにさまざまに見立てられているのです。雨や雪を冠した言葉も多いですが、それらの多くは、雨や雪そのものの表情をとらえたもので見立てではありません。霧も靄も同様です。春の霞であればこその風情を、私たち日本人は好んだ、というしかないでしょう。
「梅の花枝は、霞の朝に切れ」、といいました。特別な理由は見当たりませんが、手荒く扱うと花が散りやすい梅を愛おしんで家の内にも活ける、その雅風をいったのでしょう。日本人の細やかな季節感覚に相違ありません。
今年も、春は霞……。

